10


倉庫街を後にした車は行きとは違う道を走り、窓の景色を変え、病院のある方面から少しずつ進路を変えて進む。

運転席には唐澤が座り、助手席には日向。
俺は後部座席に体を凭れさせ、静かに隣に座る猛を見上げた。

「…猛」

話しかければ視線が俺へと落とされ、何だと眼差しが問う。

「俺が帰らねぇって言ったらどうするつもりだった?」

俺を見下ろす瞳が細められ、猛は唇を歪めると深みのある低い声で答えた。

「お前はよくよく仮定の話が好きだな。過ぎたことを聞いて何になる?」

「俺は…、知りたいだけだ」

仮定の話でも、猛にとってはもう過ぎた無意味な回答でも。俺は知りたい。

些細な事ではあるが俺は初めて自分から猛に意見を求めた。
それは一種の、猛を試した様なものだったのかも知れない。

確実にその意図に気付いているだろう猛は表情を変えぬまま告げた。

「仮定の話は好きじゃねぇが特別に教えてやる。…俺が口にした事が全てだ」

これで満足かと見下ろしてくる猛に嘘を吐いてる様子はない。しかし…。

それきり口を閉ざした俺に、不意に持ち上げられた猛の右手が伸ばされる。その動作に小さく肩が揺れ、俺は自然と猛から距離をとろうと座席に凭れていた体を起こしていた。

「動くな―」

視線を外さぬまま猛が告げる。
するりと頬に触れてきた掌が熱を感じさせ、

「信じてぇから俺の手を取ったんだろう、拓磨」

戸惑う俺に落とされた言葉がじわりと胸の内に入り込む。
頬に触れていた手が輪郭をなぞるように下へと滑り、頤にかけられた。

「っ―…」

ゆっくりと縮まる距離に、動けないでいる俺に猛は囁くように言葉を紡いだ。

「信じると決めたなら疑うな。俺はお前に嘘は吐かねぇ。それとも…」

唇に優しく触れた吐息とぬくもりに震え、俺は息を詰まらせて猛を見つめ返す。
ゆるりと口端の吊り上げられた唇が耳元に寄せられ、流し込まれた低い声が俺の鼓膜を揺らした。

「愛されてる実感が欲しいか?」

「なっ―…!」

クツリと耳に触れた吐息に、俺は反射的に猛を突き放そうと左手で猛の肩を押す。
怪我のせいであまり力の出ない腕で、元々の力の差もあるだろうが、押した所で猛はびくともしなかった。

逆に猛の肩に置いた手を掴まれ、引かれる。
バランスを崩して傾いた体は猛の胸に凭れるようにして止まった。

「クッ、冗談だ。お前はまだ大人しくしていろ」

「っ、アンタがっ…」

涼しい顔して冗談とも思えぬ発言をした猛を俺は下から睨み上げる。
その視線が絡むと猛はまた俺に向かって手を伸ばし、頬に触れてきた。

離せと、拒否の言葉を口にする前に猛の指先がすっと優しく目元をなぞってくる。

「良い目だ。俺好みの」

そして、いつも見せる皮肉混じりの笑みではなく、どことなく柔らかい笑みを猛は溢した。
瞬間、前の座席に座る二人が小さく息を呑んだ。

しかし、俺は気付かない。
それよりも間近で向けられた笑みに俺は何だか急に胸がきゅぅと苦しくなって、いきなり跳ね上がった体温に戸惑う。

叩き落とすつもりだった猛の手をどうにも出来ずに、この身を襲う異変が早く治まるのを俺は待った。








音も静かに、緩やかに車が停車したのは見覚えのあるマンションだった。
地下駐車場には降りずにマンション前で停まった車に俺が疑問を抱けば、先を制して猛が口を開いた。

「病院に置いといても良かったが、こっちの方が何かと都合が良い」

「都合…?」

先に助手席から降りた日向が後部のドアの前に立ち、後ろのドアを開ける。俺の言葉に答えず、猛は別の事を口にしながら俺に降りるよう促した。

「三輪が定期的に診察に来ることになってる。大人しく受けろ」

「あぁ、…アンタは?」

怪我を考慮してか、差し出された日向の手を俺は無視して自力で車から降りる。続いて降りる素振りのない猛を振り返り俺は言葉を投げた。

「なんだ、寂しいのか?」

「誰が」

微かに口端を持ち上げて言った猛に、俺は冷ややかな声と表情で淡々と返す。無駄と思える会話を嫌って俺は猛に背を向けた。

「…どうしても今夜中に処理しなきゃならねぇ用事が一件残っててな。遅くなるが帰って来る。先に寝ていろ」

その背に、がらりと声質の違う背筋を這う様な冷たい響きを伴った声が落とされ、俺は勢いよく背後を振り返る。

「日向。例えお前でも次は無い」

「はい…、肝に命じておきます」

冷たい、底の見えない真っ黒な沼を覗き込んだようなゾッとする感覚。空気が張り詰め、ヒヤリと背筋の凍るようなこれは。一度だけ味わったことがある。

一瞬だけ絡んだ視線に、俺は小さく息を飲む。

日向の手で後部のドアが閉められ、停車していた車は唐澤の運転で再び動き出した。
殆ど車通りの無い車道へと車は合流し、ポツポツと点在する街灯に照らされながら車は夜の中へと消えて行った。

「さ、俺達も中へ入ろうか」

先程まで張り詰めていた空気を霧散させ、へらりと表情を崩して俺に話し掛けてきた日向に、俺は小さく詰めた息をゆっくり吐き出しながら瞳を鋭く細め、日向を見返す。

「アンタは…猛が何処へ行ったか知ってるのか?」

「はっきりとは聞かされてないけど予想は出来る」

でも、と日向は一旦そこで言葉を切り、俺にエントランスに入るよう促した。

エントランスでセキュリティの解除を済ませ、エレベーターに乗る。浮遊する感覚に少しだけ気持ち悪さを覚えて、俺は壁に背を凭れた。

「大丈夫か?」

「これぐらい問題ねぇ。それより続き聞かせろ」

微かに背から伝わるエレベーターの振動音に瞼を閉じれば、静かな空間に日向の声だけが聞こえる。

「会長が言わなかったってことは、拓磨くんが知る必要は無いってことだ」

「…俺に関係することなのか?」

「おっ、中々鋭いな。けどこれは俺の推測だから教えることは出来ない」

「結局は自分で考えろってことか」

浮遊感がピタリと止まり、目的の階に着いた事を報せる音が鳴ってエレベーターの扉が開いた。
俺は壁に凭れていた背を起こし、エレベーターを降りる。

たった数日。そんなに長い時ではなかったが、久し振りに目にした様な気さえする扉。
俺は脇に備え付けられていたパネルに暗記していた数字の羅列を打ち込み、指紋を認証させて扉の鍵を外す。

後を付いて来る日向を無意識に意識の外へ追い出して、玄関扉を開けた俺は帰って来た…と自動的に明かりの灯った室内に安堵の息を吐いた。

いつの間にここは安堵の息の付ける場所になったのか。
俺は胸の内に生まれた朧気でまだ形にすらならぬ想いに気付けぬまま靴を脱いで玄関を上がった。








その頃…
拓磨と日向をマンションで降ろした車はネオンもきらびやかな夜の街の中を走っていた。

「一時間程前に上総から連絡が来ました」

「そうか」

ハンドルを握る唐澤はチラリとバックミラーで後部座席に座る猛の姿を視認すると視線を前に戻して報告を続けた。

「何で自分が連れて来られたのかも分からない様子で、娘の方も煩く喚いてるそうです」

その報告に、窓硝子に映った猛の唇が笑みの形に歪む。

「一回上手く立ち回ったぐらいでもう忘れたのか。その女の立場を弁えない頭の悪さもソイツ譲りだな」

もっとも、奴にも女にも必要なのは頭じゃねぇから構わないか。
クツリと冷え切った眼差しが、深まる夜の闇を切り裂く。

人通りのある道を右に曲がり、三階建てのビルの影に隠れるようにして配置されていた駐車場に車を入れると唐澤はエンジンを切った。
そして十秒と待たずビルの中から上総が姿を現し、周囲に細心の注意を払いながら後部のドアを開け、軽く頭を下げた。

「お待ちしてました」

「あぁ。それで」

「三人の見張りをつけて地下の倉庫に放り込んであります」

車から降りた猛は上総から話を聞きながら、ビルの裏口へと足を踏み入れる。唐澤は付き添うようにして後から続いた。

シンと静まり返ったビル内の表側には受付が設置されており、上階へ上がればオフィスが並ぶ。
しかし猛達は上階へは上がらずに普段は倉庫となっている地下へと足を向けた。

階段と通路、薄汚れた灰色の扉を明度の落ちた蛍光灯が照らす。
コツコツと三人分の足音が響き、唐澤が伺うように前を歩く猛に声をかける。

「あの様子だと拓磨さんも気付いたかもしれませんね」

「気付いた所で拓磨は何も言わねぇさ。奴等に向ける情なんて欠片も持ち合わせてねぇだろうからな」

階段を降り、通路を少し進んだ先に見えた扉のノブに上総が手をかけ、鈍い音を立てて扉を押し開けた。

倉庫の中は通路とは違い、ほの暗くない明るい人工の光が倉庫内を明るく照らし出していた。また、地下を利用して作られた倉庫は広く、地下とは思えぬ解放感があった。

倉庫の中には物品棚が並び、上階に入っている会社の備品や廃棄するゴミなど、一時的な保管庫として様々な物が積み上げられている。
その中の一つ、備品であろう簡素な椅子に、拘束はされていないが三人の屈強な男達に回りを固められ、座らされた男女の姿がある。

開いた倉庫の扉に、椅子に座らされていた男女が期待を込めた眼差しでこちらを見た。
けれど、その眼差しからは直ぐに光が消えることになる。

五十代前半、何ら特徴のない顔をした男は倉庫内に足を踏み入れた猛の姿を目にするとヒッと醜く小さな声を漏らし、あからさまに顔色を変えた。

「ひ、氷堂…何でお前が…」

その横で、何も知らされていないのか二十代半ばの女が場違いな言葉を呟く。

「格好良い…」

ほぅっと吐息を溢した女は派手な服装で身を固め、余程自分に自信があるのか肌の露出も多く、茶色に染めた髪が肩で揺れた。

女から向けられた、ただ煩わしいだけの視線に猛は眉一つ動かさず男の前に立つ。その際、見張りとして立っていた男達は揃って猛に頭を下げ、後ろへと下がった。

「俺の顔は覚えていたようだな、草壁 良治」

「お、俺に何の用だ!金の話ならちゃんと付けただろう!こんな所に娘まで連れてきて…!」

じわりと顔色も青く冷や汗を滲ませる良治を、猛は深い闇を思わせる凍てついた眼差しで見下ろす。

「お前の差し出した五千万。あれは金にならなかった。…俺が何を言いたいか分かるな」

「なっ…!?」

猛の問い掛けに良治が目を見開く。青ざめていた顔を瞬時に沸騰させると良治は喚いた。

「あの役立たずが!養ってやった分ぐらい役に立てんのか!使えない奴め…!」

「お父さん、役立たずってもしかして…」

二人の会話からそれとなく話は理解したのか、女が良治を見る。

「そうだ、アイツだ!拓都兄さんが遺した生意気なあの餓鬼、疫病神だ!」

その言葉を耳にした途端、女は顔を醜く歪ませ不愉快さを隠さずに呟いた。

「あの子まだ生きてたの?」

女が何を言うつもりなのか知らないが、猛は構うことなく話を切って捨てる。

「お前等の事情などどうでも良い。残り五千万、どうしてくれるんだ」

今度こそバラすか、と感情の無い声で告げれば良治は慌てた様子で声を荒らげる。

「まっ、待ってくれ!何とかする!一週間、あと一週間待ってくれれば!」

「そう言ってお前は何度俺の部下を撒いた?金を集めるだけの人脈も知識もねぇ奴が」

拘束しろ、と猛は見張りをしていた男三人に良治ではなく女の方を捕まえるよう指示を出した。



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